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理事長のひとこと

第191回 民主主義制度とソーシャルメディア

  今回は、地球全体をとりまく環境に「ソーシャルメディアを通じて、人々のヴォイス(声)がどのように集約されるのか」という側面から光を当ててみたい。

 アラブ諸国では、反政府暴動が起きそれによって権力者が追放されるという過程が進んでいる。アラブ諸国に限らず、既にイランや中国においても、自分たちの持っている社会に対する不満を、街頭でデモンストレーションという形で示そうという呼びかけが行われており、これに対して権力を維持する側は抑圧体制をとるという図式になっている。
 アラブ諸国で起きた騒乱が、ペルシャや中国に飛び火する可能性が出てきたのはなぜか。これは、ソーシャルメディアというものが、地勢学的な区切りではなく、地球規模で新しく影響力を発揮しつつあるからだろう。

 今までこうした問題、すなわちソーシャルメディアが民主主義の制度としてどのような意味を持ってくるのかについて、社会科学の分野で本格的なメスを加えた作品は幾つかあった。人によって挙げる論文や人の名前は違うだろうが、私は、ノーベル経済学賞を受賞したインド人のアマルティア・セン氏の考え方が一番深いと思っている。
 アマルティア・セン氏は、インドのベンガルで生まれた。ベンガルでは、1943年に大飢饉が起きたが、彼は幼少時代これを経験したと言われている。私が最初にアマルティア・セン氏の論文を読んだのは、今から40年ほど前のことだが、その内容はソーシャルディスカウントレートという考え方に関するものであった。投資に当っては、現在消費しつくさず貯蓄するものが、将来の秩序に繋がっていく。即ち、投資は新たな展開を遂げる資源となる。そういう意味において、貯蓄は今日と明日との消費パターンを決めると言える。そしてこの決め方の中に割引率というものが入ってくるのだが、この社会的な割引率がどのように決まるのかに関するアマルティア・セン氏の著作を、40年ほど前に仲間と一緒に読んだことを記憶している。
 ソーシャルディスカウントレート、すなわち社会的な割引率を議論するだけの人ならば、経済学者の中で何人もいたが、セン氏のすばらしい面は、そうした議論にとどまらず、ベンガルの飢饉を分析の対象としたことである。飢饉の分析で彼は次のような発見をしている。
 ベンガルの大飢饉が起きた理由として、農業の不作があったことは事実だが、平年に比べて収量が半減以下であったという事実はなかった。確かにその年、ベンガル地方で不作があったものの、それは平年に比べて若干の、10%程度のマイナスであった。それでは何故飢饉が起きたのか。彼の分析によれば、不作の情報が流れると、当然思惑が出てくる。将来、例えば1ヵ月後あるいは6ヶ月後の食糧価格が急騰する可能性があると考えれば、一人ひとりの経済人には自己防衛本能があり、早めの手当をするのは当然のことである。このため、10%程度の不作であっても、価格が急騰することがある。もちろんインドのように大きな国であれば、ベンガル地方が不作であったとしても、連邦政府が程度を把握し、食糧が余っている他の地方から上手く調達するといった介入を行っていれば、価格急騰は抑えられたはずだ。しかし、実際にはそういう能力が連邦政府にあったとは言えない。その結果、食糧価格が急騰していく中で、都市の中産階級以下の人々の実質的な生活水準が一挙に低下することになった。都市の貧しい勤労者を考えてみると、1ヶ月に使う費用の過半が食料費と言えるだろう。そうした人々は、食糧価格急騰が起きれば、一気に生活が苦しくなる。そうなれば、当然ながら生き延びるのが最重要となり、これまで支出していたものも諦めざるを得なくなる。
 そして、そうした状況で一番困るのは例えば町の散髪屋だというのが、アマルティア・セン氏の指摘である。生活が苦しくなると、散髪屋に行く費用は払えなくなる。毛は伸ばしたまま、あるいは自宅で刈る等の弥縫策をとることがごく普通のことになる。散髪屋に行くことは、言うならば贅沢な支出になり、贅沢な支出は削られるからだ。そうなると本当に困るのは、散髪屋である。ベンガル大飢饉の際、都市部で食糧が手に入らず栄養不足になり、極端なケースではそれを理由に亡くなった人もいた。普通の考えであれば、食糧が不作の場合、農民が亡くなるのではないかと思う。しかし、ベンガル地域の観察をしてみると、都市におけるサービス産業従事者が大きな被害を受けたというのが、現実の姿である。
 こうした被害を予防するためには、当然のことながら、連邦政府のレベルで、どのように食糧を全国的に調達し、不足が起きているところにはどのように配給するのかを検討し、最適な介入をすることが重要になる。そして、このための制度を作り上げるためには、ヴォイスを拾い上げることが必要である。すなわち、食糧品価格が急騰したことで、本当に困り果てている人々の声が正確に伝えられる必要があるのだ。アマルティア・セン氏によれば、これこそが民主主義の制度だということになる。人々が叫ばざるを得ないような厳しい現実が起きた際、そのヴォイスを上手く拾い上げる制度があるかどうか、これが民主主義であり、これが欠ける、即ち政府が人民の声を正確に掬い取ることができないことになると、当然的確な対策がとれず、結果として被害は甚大なものになる。アマルティア・セン氏が述べているこの分析は、非常に重要である。彼は民主主義あるいは政治制度というinstitutionについての省察を、具体例を通じて行ったのだ。

 人々のヴォイスが拾えるかどうかということは、ソーシャルメディアとしてのfacebookやtwitterがあるか否かという話ではない。民主主義の制度が人々の声を掬い上げられるかどうか、これに関わってアマルティア・セン氏はこうした論考、研究を行った。このことに大変深い意味があると思う。彼が経済分析として、飢餓が都市のサービス産業従事者を中心としてその被害者を増やしたことについて分析したこと自体も大変立派な作業だが、彼がもっと深い人であると感じる理由は、民主主義的諸制度が発展しつつあるのかどうかによって被害の程度が当然変わるという議論をしたことである。彼は、中国、ロシアといった旧共産圏、中国の場合は共産党が一党支配をしており、依然として共産主義と言ってもいい状況だが、こうしたところにおいては、水を掬い取るようにしてうまく人民の声を正確に取り上げることができないがゆえに、政府は懸命ではなくなると言っている。そして、ここに問題が矛盾の拡大という形で生じてくる可能性があることを指摘している。

 今回のアラブ諸国を発端とする一連の騒乱において、facebookを例にとり、ソーシャルメディアが大きな意味を持った背景を考えてみると、人々は、自分達が置かれた情勢について「知りたい」という欲求を持ち、それにあたり、できるだけ確かなもの、判断材料となるものを通じて、互いに「繋がっていたい」という欲求をも持っていたということがあると思う。そういう意味においては、このfacebookというソーシャルネットワークサービスには、従来のものに比べ、真実に接近したいという人に対して、その真実を少しでも担保する仕組みがあった。そして、色々な大きな絵を描くことができる潜在能力がある人達が、自分達が置かれている状況全体がどのように動いているのかを比較し、部分的な材料でもって全体を推測し、そしてお互いを繋ぐことを可能にした。知りたいという関心があり、少しでも確からしさを感じられる枠組みがあれば、相互に繋いで新しい大きな声にしようということになる。
 今回は、facebook等のソーシャルメディアを通じて、社会的な不満が一挙に掬い上げられた。このような情報通信上の新しい情勢のもとでは、アラブからペルシャや中国にという、従来では考えられなかった影響の波及が起きることが明らかになった。特に社会に対する不満が高じていった際、水を両手で掬い上げるような形でそれを拾い上げる仕組みに遺漏があるところでは、ソーシャルメディアが大きな役割を持つことも証明されたと言えるだろう。

 とはいえ、その先、例えばムバラクが実質上追放された後のエジプトに、新しい秩序をどう作るのかという議論の際、facebook等のソーシャルメディアが大きな役割を果すかどうかについては、まだ大きな疑問符がついたままと言えるだろう。ソーシャルメディアが、社会の不満にあるベクトル(方向性を持った力)をつけることは、今回証明された。しかし、古い秩序が崩れ、旧都が廃れた後、新都はすぐに成るのかというと、新しい都を作る秩序作りにソーシャルメディアがどういう役割を果すのかは未だはっきりしていない。今回の騒乱において、リーダーは後ろに隠れたままであったが、新しい都を作るということになると、やはりリーダー像というものが必要だろう。そこには調整という社会の内部における大きな重要な問題があり、リーダー像を抜きにしてこの調整議論を論じるわけにはいかない。
 われわれは、現在進行形としてこうした人類史の大きな変化に立ち会っていると言える。私自身は、ソーシャルネットワークのみで新しい都を作ることができるかどうかについては、まだまだ議論されなければならないと思っている。

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