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理事長のひとこと

第232回 富士通元社長山本卓真氏を偲んで

  富士通の元社長山本卓真氏が亡くなった。今回は、私が生前山本氏と交わした会話の中で、現在でも鮮明に記憶していることについて述べたい。

 山本氏を紹介する際、日本のコンピューターを作るにあたり大きな貢献をした故池田敏雄氏の名前が挙がるだろう。山本氏はこの池田氏とのコンビを組み、今日の富士通のコンピューター部門を作り上げ、IBMと対抗するだけの力を持たせるに至った。当然山本氏の紹介の際には、このことについても触れられるべきだろう。

 私が山本氏と知り合ったのは、既に彼が富士通の社長になって数年、あるいはもう少し経った時期であった。彼から次のような感想をうかがったことがある。「天才池田がコンピューターでイメージしたものと、今日の汎用機と呼ばれるコンピューターとは、ひょっとして食い違い始めているかもしれない。」池田氏のコンピューター開発についての思いは、山本氏の言葉を借りれば「あたかもハンドルとアクセルとブレーキとで車の運転ができることに匹敵するくらい簡単に使えるものにすべきである」ということであった。池田氏は、それがコンピューターの行き着く先だとずっと言っていたそうだ。
 池田氏が亡くなり、彼の衣鉢を継ぐかたちで山本氏は仕事を続けてきた。当時巨人であったIBMに対抗するため、IBMが投入する機材を自ら投入し続けるプロセスの中で山本氏は、池田氏が考えていたコンピューターから次第にかけ離れてきているのではないかということを感じていたのだろう。私にもそうした感想を述べたくらいであるから、おそらく富士通の内部でも、当時取り組まれていたものとは違うものが必要だという話はしていただろう。当時の富士通では、IBMとの対抗関係が知的所有権に関わる紛争にまで拡大していた。したがって富士通の研究開発者たちの中からも、IBMとの法廷闘争に相当程度人材を割かざるを得なかった。富士通は、IBMを使用する事業者に対し、自分たちのコンピューターはそのままのソフトウェアで使えるというかたちで販路を開拓する、IBMコンパチブル(互換機)という路線をとってきた。こうした路線をとってきた以上、この知的所有権に関する問題をどうしても疎かにはできなかった。最終的にはこの紛争は和解になったが、この流れは運命付けられていたと言えるだろう。
 山本氏は、天才池田氏が目標として掲げていたものとは次第に離れ始めているコンピューターに対して、根底からもう一度問い直す分野に人を割きたかったのだろう。しかしこうした背景から、当初天才池田氏が持っていたもう一つの路線を富士通が内側から生み出すことはできなかったのだ。しかし山本氏も、後にPC(パーソナルコンピューター)が登場する予感をどこかで感じていたのだろう。そしてそれが社会において大きな役割を果す可能性があるということも、池田氏のイメージを重んじていた山本氏にはあった。残念ながら富士通としてそうした分野に経営資源を振り分けることはできなかったが、今でも鮮明に記憶している山本氏のつぶやきの一つがこの『天才池田』のつぶやきである。

 もう一つ私が聞いた山本氏のつぶやきも非常に印象深い。それは、次のようなものである。1980年代の後半、IBMの売上げがついに増えなくなり、天井を打ったらしいという気配が出てきた。ある座談会からの帰り、私は山本氏の車に同乗させてもらった。そのとき彼は「あのIBMの売上げがどうやら増えなくなっている。大きな変化が起き始めている。これはすぐ日本にもくるな。」と感想を述べられた。当時、ワークステーションやパーソナルコンピューターといった、巨大な情報システムから様々な端末を繋ぎ合わせ大型コンピューターが果たしてきた役割を代替しようという動きが出てきていた。この新しい変化に突き当ったIBMは、その曲がり角を曲がり切れなそうな雰囲気であった。現実にはIBMはその後全く異なる分野から経営者を投入し、情報サービス会社に一挙に展開を遂げるのだが、山本氏はそのIBMの曲がり角を実感していた。そしてそれは日本の情報産業にも大きな変化としてやってくるはずだという予感を持っていたのだ。
 しかし、現実のテンポはより速かった。富士通は、情報システム等の投資を、実質上の無形の資産として事業会社が計上するプロプライエタリというビジネスモデルからの脱却に手間取った。それまで富士通の売上げを大幅に増やしてきた方式をどこかで転換しなければならないというとき、イノベーターのジレンマとでもいうべく、これまでのビジネスモデルがあまりにもうまくいっていたため、結果として転換に時間がかかったのが実際だろう。

 今となれば、コンピューターの歴史の中であらゆる戦線を経験された山本卓真氏には、晩年に一冊本を書いていただきたかったと思っている。山本氏は様々な知見をお持ちの方であった。彼は大変姿勢の正しい方で、背筋がいつも真っ直ぐだったことを覚えている。

 最後にもう一つ付け加えたい。富士通の経営者として現役を退かれた後、偶然、大阪でお目にかかったときのことである。彼は昔部下だった人のお宅を訪問し、線香をあげに行くと言っていた。山本氏は戦争体制の中、日本陸軍で苦悶された方である。敗戦も旧満州で迎えたとのことであった。彼は、経営者としての現役を終えた後も、昔の部下に線香を手向けるという気持ちをずっと持っていた方であった。そのことがおそらくいつも背筋を真っ直ぐにされていた理由なのだろう。

 第二次大戦後の日本の産業史の中で大きな足跡を残された方が亡くなられたことについて、いささか縁があり、その謦咳に接することができた立場から、お悔みという意味で述べさせていただいた。

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